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日中友好後楽会
第14回「日中文化講座」開催 テーマは「徐福伝説をめぐる日中の動向」
当財団が、かながわ学術研究交流財団と共催で実施している日中文化講座は、2007年2月17日(土)、湘南国際村センター第二研修室を会場にして行われた。テーマは、「徐福伝説―いまを生きる伝承」。講師は数少ない徐福研究者のひとりである逵志保女史。
講演に先立って、かながわ学術研究交流財団の富岡専務理事が「紀元前219年が徐福来日といわれている年。この時代の日本は縄文時代から弥生時代に入る頃。渡来した人々は、それぞれに漢字など先進文化を携えてきた。爾来日本は長きに亘り多くのものを中国から学んできた。本日はそうした歴史を学ぶ好機とご理解いただけば幸甚だ」と開会の言葉を述べた。
徐福伝説の存在を辿れば、『史記』(秦始皇本紀第6、B.C.91)に、「徐福は秦始皇帝の命を受け童男童女数千人とともに、東海の三神山(蓬莱、方丈、瀛洲)へ不死の薬を求めて船出・・・・・平原広沢を得て王となり帰らず」とあるのみ。
一方、日本の古典には徐福のことに触れた記述は平家物語、源氏物語、紫式部日記など全部で600くらいある。徐福渡来伝承地は全国20数箇所もあり、いまなお増えているというのが現状。なかでも、和歌山県新宮市の蓬莱山や、三重県熊野市波田須には徐福の墓がある。新宮の墓は1736年に建立されたが、なぜこの年にこのような墓があるのか。
逵志保女史が徐福に関心をもったのは、80年代半ばに日本軍の戦跡めぐりの旅行団に参加して江蘇省贛楡県を訪れたときに遡る。日本軍がこの村人を皆殺しにしたという話に皆が打ちひしがれていたときに、県長が「両国には嫌なこともあったが、徐福という人が日本に行ったという良い時代もある」との話をした。逵志保女史はこのときに初めて徐福を研究してみようと、大学院への進学を決意したという。
その後日中双方に徐福研究会や研究所がいくつもでき、韓国も呼応していまや徐福は日中韓で研究されるようになった。
話の最後に「日中関係が悪くなると徐福を語る動きはなくなるかと予測していたが、2006年度は政府間が悪化していたにも拘わらず、徐福伝承の各地の動きが活発化し、東アジアの徐福を縁とする地域と人とのネットワークの構築が自然発生的に広がりを見せているようだ」と締めくくった。
当講座には聴講申し込みが多くて、会場の関係でやむなくお断りしたが、聴講した参加者はかねてから徐福に関心を持つ人が多いのか、「伝承の地は潮の流れから立証できるのか」「文字に記述されたのは司馬遷のみというのに、このように伝承地が多いというのはなにを意味するのか」「中国の指導者は徐福伝承をどうみているのか」など、徐福伝説が生まれた背景を知りたいという質問が多く寄せられた。
(総合交流部)
講師の逵志保女史
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